自分の何が残れば、私と言えるのか

園長 東 晴也

18日(土)は、ツリーハウスの桜の大木を剪定いたしました。
昨年から強風で桜の枝が時々落ちるようになり、園の樹木医とこのソメイヨシノをどうするかを話し合ってきました。卒業記念として、約50年前に植樹された記念の木。毎年、入園式等に集う人々の写真の背景となって来た、園のランドマークのような桜の木をどうするか。検討して来た結果、この春に強めの剪定することが決まっていました。

朝から業者が入り、剪定が始まりました。この剪定は、落下の可能性のある老枝を大胆に切り落とし、桜全体を軽くして木全体に過度な負担がないようにすること。また、木を活性化させて数年後に元気に花を咲かせるための剪定でした。

重機(高所作業者とパッカー車)が2台、来ました。高所作業者の先端に乗った作業員がチェーンソーを巧みに使って、どんどん桜の枝は切り落とされていきます。落ちた枝はパッカー車の中に吸い込まれていきます。どんどん枝が切り落とされている様子を見ていた私は、不思議な感覚に陥りました。
「切られ続けるこの桜の木、一体何が残れば、同じ桜の木と呼べるのか?」
以前、『大きな木』(シルヴァスタイン)という絵本を読んだ時も同じような感覚になったのを思い出しました。一人の人間の子どものために自分の体である木(材木)を捧げつくして、やがて切り株だけになる「大きな木」。目の前の桜が、剪定としてではなく、ひたすら切られ続けていったとして、桜と呼べるのは一体何が残ったからなのだろう?

絵本『大きな木』のように切り株だけになったとしても、桜は桜なのでしょう。では、人ではどうか。たとえば、私が切られ続けていったとして、何が残れば「私」であると言えるのだろうか?

園庭の桜は、木全体の3分の1の枝葉が切り落とされたように思いますが、今までと同じように立ち続けています。たとえば、私の体の3分の1が切り落とされたとして、依然として「私」であり続けることはできるだろうか?一体何が残れば、私であると言えるのだろうか。私はその「何か」を最後まで守ることができるだろうか。その「何か」とは何か?……皆さんはどう思いますか?

業者さんは、剪定後、桜の周囲の土に小さな深い穴をいくつも掘り、エアレーションし、水と肥料を与えてくれました。枝にではなく、幹にではなく、根に栄養を与えたのです。大木の土台は根なのですね。

狭山ひかり幼稚園は、在園児の皆さんが、来年に大きな花を咲かせるような教育はしていません。何年後、何十年後かに、その人にしか咲かすことができない花を咲かせるために、今日もその子どもの「人生の土台」にていねいに関わりつづけていきたい。自分の人生の枝葉は切り取られることがあったとしても、自分の人生の土台、最も大切なものを守り続けて生きていってほしいと思った、桜の剪定作業でした。
「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。」箴言4章23節(2024.5.18)

*「『園長!』の写真日記」は、ひかり幼稚園在園児及びそのご家族を念頭に、その日にあった出来事を写真と共に振り返りつつ、執筆するものです。